4年前に定年退職してハローワークに出向いた時のこと。
当時はコロナ禍で海外からの留学生や実習生の入国もバンされていて、日本語講師への道も閉ざされており、それ以外の数少ない希望職種として羽田空港での仕事を探していた。
現役の頃、特に出張や飛行機が好きな訳ではなかったが、何故か空港に着くと不思議な高揚感があってその理由を確かめたいと思ったのだ。
でも当時は日本語講師と同様コロナで空港での需要も激減して求人を見つけるのは困難だった。
先月夜の羽田空港の展望デッキで警備員の方を見かけて、そんな4年前を思い出した。
実際には退職後も ”どこかにマイル旅” で気軽に羽田空港を体験するのは容易なことだ。わざわざそこで働かなくても、利用者として搭乗前にサクララウンジでビールを飲んでる方が楽しいに決まっている。
また日本語講師も今となっては薄給で人に使われるより、やる気のある生徒をボランティアで教えている方が満足感が高い。だからそうしている。
そんな訳で今後のボクの人生で再度働きに出る可能性は限りなく低い。
でももう一度生まれ変わって新たな職に就くことになったとしたら・・・
こんなのはどうだろうか?
先週北海道を旅してふと考えてみた。
体験型観光ガイド
今回小樽の「青の洞窟ツアー」で夫婦でやられているツアーに参加した。
出発15分前に指定された運河に集合。真面目なボクは遅刻しない様に30分前には着いたが結局主催者の陽気なおばちゃんの世間話にずーっと付き合わされた。
運転・ガイドは旦那さんの役目だ。
お客さんはボクを含めて12名。非日常的なパワーボートでのクルージングに皆ご機嫌だ。
青の洞窟に着くまでの間、旦那さんがいろいろ教えてくれる。
「昭和の初めにこんな絶壁の崖に巨大な遊郭があって、客は海から船で遊びに来てました」とか、「この時期だけかもめの赤ちゃんが見られて今日は皆さんはラッキーですね」とかどうでも良い話なんだけど(笑)、乗客は老若男女そして外国人まで「へぇ!」とか「オーっ!」とかいちいち感心している。
そうなのだ。これならボクも天職としてやってみたいと思う。
翌日参加した千歳川のカヌーツアーも同じだ。
自分の行動・言動が人々を幸せにしているのを分かり易く実感出来る職業・・そしてその体験型観光の最中はしっかりと参加者の安全を守り、結果皆から頼られる存在。
こんな環境ではカスハラなどもなかなか起きづらいだろう。
またこのようなアウトドア的な専門性など特に持たなくとも、人々の幸せに立ち会える職場はいろいろありそうだ。
ボクが今まで「あっ!これいいな。」と思った職業。
新築モデルハウスの説明員、花見会場のもぎり、ビール工場見学試飲サービス係、あと遺失物一時預かり所 (笑)
お客さんが皆幸せモードに入っている。
後日、ご丁寧にこのツアコンから参加のお礼メールが来た。
そこに履歴として残っているボクとのメールやり取りの中で ”現地現金払い” と書いてある。
「あれっ?ボク払ってないなぁ」
メールで問い合わせると直ぐに電話がかかってきた。あの陽気なおばちゃんだ。
「麻太郎さん、ずーっと話ばかりしていてお金貰うのすっかり忘れていました。お手数お掛けしますが送金して頂けますか?いつでも良いので。手数料は勿論こっち負担で。ええ。ほんといつでも良いので。」
いつでも良いとリピされても、ボクが忘れたらこのおばちゃんもまた忘れるだろう。直ぐ払おうとしてSMSで連絡のあった送金先の口座名を見て笑えた。
Anytime 〇〇愛子
どういう意味? ストレスの無さそうなお仕事振りがちょっと羨ましい。
鰊(にしん)御殿
これはやりたい職業というより仕事のやり方に関することだ。
以前も書いたかもしれないけど、若い頃の僕は1年のうち何か月か働いたら残りの時間を物価の安い南の島でのんびり過ごすと行った人生に憧れていた時期があった。
年末年始、GW、夏休みと年に3回は1~2週間海外旅を続けるにつれ、例えばインド、スリランカ、フィリピンなどの島で過ごすと周りでボクより遥かに長いバケーションを楽しむ欧州人達を見て本当に羨ましいと思ったものだ。
当時はまだ世界的にも円も強かったから、1日中呑んで食べてエアコン付きのバンガローやゲストハウスで過ごしてもせいぜい3千円とか・・それって月に10万円しかかからない優雅な生活。
これなら仕事の内容に拘わらず年に3か月程必死に働いて100万円くらい稼げば、後はこの夢のような生活も出来るなぁとか妄想していた。
今回積丹で泊まった小さな村が実は昭和初期まで鰊漁で大繁栄していたことを、現存する鰊御殿の博物館を見学して知ったのだ。
江戸時代より毎年3~5月の3か月間のみ、それこそ巨大な白い煙が海面から湧き上がるように鰊がやって来たそうだ。
親方と呼ばれる胴元はこの時期だけ北海道・東北から出稼ぎの漁師を雇い、自身の鰊御殿で世話をしながら(管理しながら)巨大な富を得ていたらしい。
畳の部分は親方家族が、そして三和土を挟んで木製の広間では漁夫だまりと言って出稼ぎの漁師50~60人が共同生活していた。
2階は物置の向こうに小さな扉があり、親方家族の隠れ部屋があった。夜に酒を飲んで暴れる出稼ぎ漁師や、不漁の年の借金取りから身を守る為の知恵だったらしい(笑)。
この様に何十馬力にもなる労働者を管理して毎年短期間で巨万の富を築き上げる実業家・・ボク的には今でもとても憧れるビジネスモデルだ。
泊まった民宿から眺める今ではとても小さな漁港。のどかな風景だ。
昭和初期、まだボクも生まれていなかった頃に、鰊は徐々に来なくなったそうだ。
それではShanti Shanti! 素晴らしい1日を!