定年退職を振り返って(会社編)

9月に入り、気が付くとあっという間の退職生活1か月目が過ぎました。

ジャネーの法則に従えば、案の定仕事を離れて暫くぼーっと過ごしていたということでしょう。

これじゃイカン!と思う訳でも無く、もし今後もこのままの過ごし方でも何の焦燥感も掻き立てられないのであればこれも悪くないなぁという感じです。

ボクの場合は、たまに聞かれるような退職直前まで燃え尽きるように仕事をしてのいきなりステーキ退職ではなかったので非常に安定した退職後へのソフトランディングだったと思います。

退職を意識し始めた56歳

「何だい、随分ノンビリしているなぁ」と思われる方も多いのではと思います。大勢のサラリーマンは50歳にもなればもう会社での立ち位置もほぼほぼ見通せて、軸足を会社以外のものに移していくものかもしれません。

ボクはと言うと、メーカーに入社以来ずーと希望通り海外営業一途で40歳過ぎ迄は楽しい下積み生活、本当に様々な国での営業経験をさせてもらい(この時点で既に仕事だけで60ヶ国以上を訪問)、その後45歳からの10年間は文字通り「天職」として会社内で振舞っていました。外資の会社の中でそれを許す風土みたいなものもありました。

55歳になって、3度目の駐在の辞令が出ました。行先はシンガポール。

本当は60歳までは日本で現状維持(仕事に対する承認欲求は強かったけど、過大な出世欲はなかった)、60歳で定年を迎えたらどこか駐在に出して貰ってもいいなぁと思っていたので、このタイミングでの駐在は気持ちの上でかなり微妙でした。

でもそこは根っからのサラリーマン、新しい仕事自体もチャレンジングなものだったので、新築の家を建てたばかりでしたが、家族を残して単身赴任で行くことにしました。

ここからはさらっと書きますが、その後グループ会社を含め大きな組織変更が計画され、任期半ばで本社より帰国命令が出ました。その時56歳。但しボクの日本でのポジションがなかなか決まらず、そんな中で帰任迄の半年間考え始めた。早期退職のことを・・

実際に日本に戻ってからの半年間は、暇な職場でした。午前で仕事が終わると午後は寝ないために散歩に出かけたり半休とって海に行ったり。それでも給料と役職は現状維持。サラリーマン人生で最も不思議な経験でしたが、こんな状態が長く続く訳もなく、次の移動先次第では早期退職も視野に入れました。ただ正直言って「この何にもしない半年間」を経て新たな会社で再チャレンジする熱意はなかったです。一旦緩んだネジを巻き戻すのは大変です。

結局57歳になった時、役職定年(会社にそういう制度自体はありませんでしたが)となり、新たに国内販売企画をやることに。ここでも不思議な経験を。年収は2割減だけどタスクの責任としては(体感的に)8割減!

変則的なパレートの法則(80:20)ですね(笑)

傍から見れば超ラッキーで超楽勝状況なんでしょうが、実際は全く役割も環境も異なり、長年築いてきたネットワークも使えずにボクとしては承認欲求が満たせないのに仕事(実務)は大変というなかなか厳しい最後の3年間でした。

じゃあ何故早期退職しなかったのか?

早期退場はしたくなかった

特に合理的理由はありません。全くもって個人的な気持ちです(笑)。

納得感のない役職定年に「それなら辞めます!」と言う方がすっきりしたか? 60歳定年という世間一般のタイムラインにも到達出来なかったトラウマを持ってその後冴えない人生を送る方がカッコ悪いなぁと思ったのです。

今はやりのFIRE(アーリーリタイヤ)も「社畜は嫌で自由に生きたい」と分かりやすいけど、往々にして「お金との折り合い」がメインの関心事で、肝心の「じゃあ仕事辞めたら何をしたいの?単にのんびりしたいの?」というところが良く見えない若い人も多いのでは?

ボクも退職してやりたいことが明確になっていないことは全く同じですが、だからこそ60歳までは仕事を続けようと思いました。

まだ稼げている自分を辞める踏ん切りがつかなかった。

将来また働くことがあるかもしれません。経済的な理由であれ、モチベーションの理由であれ。

でも最後の3年間の収入を超える仕事につくことは極めて困難だと思います。「あーあの時会社を辞めなければ良かったなぁ」と後悔の感情を持つリスクは1%も取りたくありませんでした。

正直言って現存する人的資源を潔く手放すというのは、気持ちの上でかなり困難でした。

6月~ 会社での最後の1か月

コロナの影響で、会社としては本社は基本4月から全員在宅勤務、例外としてボクが所属していた国内営業取り纏めの本部は、ボクを含めた管理職だけは適宜出社という方針となっていました。全国の営業部隊は毎日コロナ禍でも現場営業を継続していたからです。

但しボクの場合は、4月始めに(不名誉な)負傷で肩を骨折→手術→リハビリとなり、結局6月末までは週1~2回の出社、あとは在宅勤務という形でした。

人生初の手術が終わった晩に病院のテレビで安倍首相の緊急事態宣言を聞き、「あーこのままもう定年退職の流れかなぁ?」と麻酔が残っている頭でぼんやり感じていたことを覚えています。

 

退職の意向については、年初に上司、マネージメントへ伝えていましたが、同僚への発表は5月に入ってからでした。所属本部の同僚には会社で直接お話出来ましたが、長年付き合いのあった大勢の他本部の方々にはメールでの連絡となりました。皆在宅勤務だったので・・

本人同士の表情が見えないメールでの退職連絡というのは、「何だかなぁ」という気はしました。でもメールの良いところは、受け取ってから一定の時間をかけて返信が出来ること。頂いたメールの中には、「随分と時間をかけて書いてくれたんだなぁ」という丁寧で思いの籠ったものもありました「あーこんなことも確かにあったなぁ。この時彼(彼女)はこんな風に思ってくれていたんだ。」みたいな。

 

7月に入り最後の挨拶。

実はコロナ禍でひっそりメール挨拶だけで消えていくのも悪くないと思っていました。ボクはお先に失礼するけど、残された皆さん本当に大変な時期が続きますからね。

でも多くの人がコロナ禍の中、マスクして来てくれました。在宅勤務の人も海外の仲間もスカイプ先から。国内各地にちらばる営業の仲間からのビデオメッセージも。

早期退職でも雇用延長でもこうはならなかったでしょう。本当にいい塩梅。最後までボクのサラリーマン人生は幸せでした。

振り返ってみて

ボクの退職を聞いた仲間の反応が興味深かったです。

日本人:

「えー麻太郎さんはてっきり雇用延長だと思っていましたよ。びっくりです!」→みんなボクの最後の3年間は結構つらかったこと気付いてなかったんだね。

外国人:

「いやあ麻太郎さん、おめでとう!本当にお疲れ様。これからがさらに豊かな人生の始まりだよ!」→そう、こっちの方がしっくりするね。

 

最後に一言

ボクぐらいのジェネレーションだと、燃え尽きるように働いて、退職してみたら何もすることもなければ居場所もないという仁は結構いるのではないでしょうか?

仕事中心の生活→役職定年→雇用延長→退職

この日本でまだ残っているシステムというのは、年収が減って大変というネガティブなプロセスとして取り扱われることもあるのですが、実は第二の人生で燃え尽きない為の良く出来たシステムではないのかなと思います。

ボクの場合は雇用延長がなかったけど、コロナによる在宅勤務、肩のリハビリというものが、最後のタイミングで濃い仕事や人間関係からのステップダウンに功を奏したのかもしれません。

 

さて次回は退職について家庭から振り返ってみたいと思います。

それでは Shanti Shanti!  素晴らしい一日を!

 

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