3か月ぶりに奥さんと福島の温泉に来ました。
家族の様に迎えられて嬉しい。「ここに戻って来て良かった」と思う瞬間です。
今月で東日本大震災から12年。
とりわけ福島は原発絡みでまだ故郷に戻れない人々も沢山います。また魚介類、野菜、きのこ等の風評被害も世界的に払拭されていません。
一部の県民にとっては12年たった今もなおこれが日常なのだと..
それではボクにとってのあの3月11日は一体何が思い出されるのだろうか。
12年前のあの日ボクは29階のオフィスにいた。
壁に掛けてあった巨大な世界地図が振り子の様に左右にスイングして、遊園地の海賊船アトラクションさながらの動きだった。
「壁から離れて!!」
窓から外に目をやると、ツインタワーの相方のビルがこれも左右に大きくしなっていた。どうやらこっちのビルと逆の動きをしているようで、それはもう全くもって非現実的な光景だった。多分向こうのビルからこちらも同様に見えただろう。
「これはもう崩壊するな」と覚悟した。暫く肺に空気が入ってこなかった。
2回の余震を経て、ビルの管理会社から館内放送で非常階段を使って降りるよう避難指示があった。
非常階段の壁の一部にはひびが入っていたけど、窓が割れることも無くそのビルに居た大勢の人たちが低層階から順番に大きな混乱もなく階段を下りていった。
「日本人って大したもんだ」避難場所の広場に出てみて、会社ごとに整列して点呼を取る人たちを眺めながらぼんやり思ったものだ。
皆三々五々、家を目指し歩き始める。
ボクは人事本部長と二人で再度最上階の31階まで階段で上り、そこから27階までの全オフィスでとり残された従業員がいないかチェックしてまた地上に戻ってきた。
多分道路も混雑・混乱しているだろう。人事本部長が「少し麻雀でもやって帰るか。」
あの時ボクもそれは名案だと思って頷いた。もう今日の仕事は終わったんだ。
家族の安全だけ確認すると、後二人を集めて明け方まで麻雀をやった。今思えば良く雀荘も開いていたもんだ。同じような輩がもう二組いた(笑)
翌日から基本全員自宅待機。ビルの安全が確認された3日後にボクを含め限られた人間だけが出社して、社長の指示でその日の夕方のうちに新幹線で大阪支社に移動。それから1か月間以上大阪で意思決定が行われることになった。
福島原発事故のニュースにドイツ人を中心とするボードメンバーが「少しでも福島から遠いところへ!」と、いち早く反応したのだ。彼らの一部はチェルノブイリ原発事故を経験している。
日本人も経験しないような大地震だ。ドイツ人が異国の地で狼狽したのは無理もない。
でもこの過剰とも思える反応に「ったくドイツ人は・・」と少し苦々しく感じていたボクだった。
「ボクたち日本人には逃げる所はない。でもドイツ人は一度祖国に戻ればいい。仕事はどうにでもやり様はある。」と思ったのだ。
1週間ほどして少し落ち着きを取り戻した頃、ボクはドイツ人と北新地でたこ焼きをつつきながら雑談をしていた。
「麻太郎の本部は皆安否確認出来てるんだよな?」
「ああ、まだ在宅待機だけど必要な時は直ぐに連絡とれるようにしてある。」
「Mr.〇〇もその後元気かな?」
ボードメンバーの彼がボクの組織に所属していた〇〇さんを知っているのがちょっと意外だった。
足が不自由な〇〇さんは障害者枠での採用で、負荷の少ない仕事をして貰っていた。
ふと思った。
「そう言えば彼はどうやって家まで帰ったのだろう。確か千葉の方だったよな。」
ボクの顔を見てドイツ人が笑いながら言った。
「あの日俺が車で送っていったんだよ。往復8時間かかったよ。」
「えっ!!」
言葉もなかなか通じない日本であの混沌とした異常事態の中、足が不自由な〇〇さんに声掛けして家まで運転して送り届けた男。。
一方ボクは道が混んでいるという理由で麻雀をして一晩を過ごした。最後にオフィスを点検、誰も居ないことを確認しただけで、〇〇さんのことは全く頭に無かったのだ。
「Thanks・・」
上司として、そして日本人として、あの時ボクはかなり恥ずかしかった。
人間としての圧倒的なスケールの違い。。思い起こすと今でも少し気持ちが疼く。
東日本大震災の時の倍以上の死者を出してしまった今回のトルコ大地震。
トルコも地震大国だ。前職の営業部門では震災の度に現地販社に何度も弔電を出していた。
今回もボクは募金で済ますんだろうな。Better than nothing. でも・・
勿論また来るよ。
最終日は晴天でした。福島市の向こうには吾妻小富士がくっきりと見える。
それではShanti Shanti! 素晴らしい1日を!